life of seclusion

晴耕雨読

生きる資格

フィールドを変えたが、ここも自分には合っていないようだ。

 いよいよ居場所がなくなってきた。ほんとうに期待させてしまってそれを毎回裏切ることになり、自分の無能さを客観視するのがつらい。

 ネットで「無能 死ぬべき」検索してみると、自分が無能と感じ生きることが苦痛で仕方がなく希死念慮にとらわれている人が相当数いるようだ。

 相手の期待に応えられない。気を利かしているつもりでも期待しているものと全く異なる。

時間をたっぷりかけて無駄を量産しているだけ。生産性は皆無。

気を利かして”動いている”ものだから「無能な働き者」でしかない。

 無能な働き者は真っ先に排除しなければ組織が駄目になるというのが社会の常識なのであれば、私は害虫として駆除対象でしかない。

 人間が社会生活を快適に気持ちよく過ごすために「無能な働き者」の私は死ななければならないということであり、生かす理由も生きる資格もないということである。

 自分が無能であることに気が付いてはいたが、それはフィールドが合わないだけで、いつか居場所が見つかるだろうと自分本位な解釈で動いていた。

 結果、行く先々で期待を裏切ることを重ねてきた。

 まだ探せば居場所は見つかるかもしれないが、自ら幕を下ろすことが無能でも果たせる責務だということを自覚しなければならない。

 自分が生きようと思っても社会がそれを許さない。社会的に認められたものだけが「生きる資格」を所持することを許される。

 不祥事など起こすと社会は当事者から「生きる資格」を取り上げる。生きる資格を取り上げられたものの多くは自ら人生の幕を下ろしている。

 私は期限内に「生きる資格」を得ることができるのだろうか?